日本での感覚的な教え

何十年も前の話しですので話半分で聞いてください。私がデザインを学んでいた学校のデッサンの授業での話しです。

若い先生は「芯の太さや長さが異なる鉛筆を何種類も用意し、様々な線の特性を生かし、いくつものレイヤーを重ねるがごとく線を何層にも重ねて描け」との教え。

年配の先生は「鉛筆が折れるほど力強く殴るようにして描け」と言う。

さらに別の先生は、流木のデッサンをしていた際に「木の中に流れるうねりのような生命を描き出せ」との教え。バラバラの価値観やバラバラの技法を教えられる。特に生きてはいない流木の中の魂の存在は未だトラウマです。

「多くの技法の中から絵の特性に合った技法を探し出しなさい」との教えなのか、「自分の教えこそがデッサンの真髄なのだ」と言われているのか、さっぱり理解できなかったことを思い出します。

講評の際には「表層的な形や質感の表現はうまいが、おまえの絵には魂がない」と酷評されたものでした。

米国でのシステマチックな教え

日本でのデザインレイアウト法に至っては、十八番の真っ黒な小さな円と薄いグレーの大きな円をシーソーの両端に並べてバランスよく見えるようにシーソーの傾き加減を調整しろ、など私にとっては「枝葉の小技だけをいくつ並べても体系的なレイアウトの法則は習えなさそう」といった思いだけでした。

大いに不信感を抱いた私は、米国のデザインに目を向けました。そこでは、いとも簡単にグリッドシステムを解説した書物や教えの宝庫でした。「紙面全体に対するボディーエリアは、概ね1/2の面積にするとバランスがとれる」、「グリッドシステムのコラム数は、1、2、3、4、6、で分割できる12グリッドが基本」など小学生でもわかる教えでした。

こんなにも簡単なことを、なぜ煙に巻いたような教えしかできていなかったのか。私の勝手な想像ですが、きっと教えている先生本人も先人たちから、得意の「私の背中を見て覚えろ」型の教育で育てられていたのでしょうか。